ケンティ
1980年11月 東京都福生市の病院にて元気に生まれる
1984年 4月 昭島幼稚園へ入園
→基本的にいじめられっ子で女子にもボコられていた
1986年 4月 昭島市立つつじが丘北小学校へ入学
→小2の時に昭和の森イトマンスイミングスクールにて
入って2年目で選手コースにスカウトされる
→小6ではミニバスに入り少しバスケットボールの楽しさを知る
1993年 4月 昭島市立瑞雲中学校へ入学
→勉強最優先の家庭のため、中1から塾に通い始める。
→部活は水泳部に入ったのだが、練習方法が気に入らず(すべて自由だった)
辞めて2年でバスケ部へ。
→部活は塾がある日は早退という環境が当然とされたが逆らえず。
→夏休みは1日13時間以上の勉強に耐える。
1996年 4月 私立中央大学附属高等学校へ入学
→うまくなりたいというピュアな気持ちで入ったバスケ部が運命を変える。
→練習は週7日の休みなし。男子校の真面目っこ故、浮いた話もなし。
→バスケしか見えなくなり、勉強そっちのけになってしまう。70あった偏差値が
意味の無いものへ。
→毎日の個人練習と筋トレが実を結びマッチョなボディーをゲット。
→しかし結局うまくはならず、引退試合のみ出場。。。
→引退した3年の終わりごろ、初めて合コンを経験。つまんねぇ~。。。
1999年 4月 中央大学土木工学科へ入学
→親父とテニスがしたかったので、あっさりテニスのマンモスサークルへ入会。
→テニスと異性との会話のあまりの面白さに勉学そっちのけでサークル入浸り。
→大1から塾の講師のバイトも開始。個人授業から団体授業まで。
最終的には小5~高2までの算数・数学を教える。夏期講習1日10コマは
冗談にならないくらい地獄。
→結果3年まで毎年、留年に向けての勧告が両親に送付されることとなる。
→3年の最後の時点で留年確定。いい年して親にサークルを辞めさせられる。
ここで親父との歯車が狂い始め、4年では塾講師も辞めさせられることに。
→ストレスの発散場所はギャンブルに向けられ、毎日のように朝から晩まで
パチンコ店に入り浸るようになる。
→タバコの本数は増加していき、1日2箱がふつうに。
→4年では研究室に入れなかったのだが、助教授のところへ通い続け、特例で
その年に卒業研究をすませる許可をもらう。(単位は5年でもらう約束)
→この頃から土木での就職に違和感を感じ始め、5年生のときに造園分野へ
行くことを決意。親父に頭を下げて理解を得る。
→東京農業大学の研究室の方々の過去問等の協力もあり、2回目の試験で
大学院になんとか合格。
→残っていた授業に関しては高得点を連発してギリギリで卒業の予定くるう。
2004年 4月 東京農業大学大学院農学研究科造園学専攻博士前期課程へ入学
→ここから中学生以来の怒涛の勉強生活のスタート。大学院の授業の他に
学部の授業、設計事務所(2年間で少なくみて5社)でのバイト、まちづくり
関係の団体への参加など。
→桜丘すみれば自然庭園という素敵な空間に出会う。
→1年の時には静岡で開催された浜名湖花博に研究室で出展。表彰される。
→設計職に就くか、ソフト面の仕事に就くか迷いながら2年の後半へ。
→研究室や大学の垣根は越えたかったので、出来る限りいろんな環境に顔を
出し、たくさんの友人たちに出会う。
→偶然舞い込んできた就職面接の話が2社目で好感触であり、面接のみで
内定が決まる。
→修士論文は不完全ながらも形に仕上げ修了証書を頂く。
2006年 4月 某設計コンサルタントに入社。
→UR都市機構との仕事をメインとして雑務から少しずつ這い上がる。
→1年目で団地のサイン計画を任され、自分が考えたロゴが使われてるのを
見て感動。
→この年には人生で初めて結婚式二次会の司会を2件任される。ありがたや。
→3年目で手厳しいクライアントに出会いゲッソリ痩せ細る。家族や友人に心配
される事態にまで発展したが本人が病んでたのはハート。
→その頃、兼ねてから一緒に仕事をしたいと話していた親友の会社へ移ることを
考え始める。
→短い人生の中で最大の決心。転職を決意し、お世話になった上司へ伝える。
→会社を辞めていく立場のクセにボロ泣きするという伝説を最終日につくる。
2009年 4月 現会社へ転職